CASTLE

駿府城

(すんぷじょう)

静岡市葵区

↑クリックで拡大 →駿府の史跡マップ

駿府城は、戦国大名今川氏の本拠地であった今川館(いまがわやかた)の跡地に徳川家康が築いた城郭。現在は駿府城公園(駿府城跡)として静岡市民の憩いの場となっている。

慶応4年(1868年)2月、江戸を目指す東征軍が駿府にはいると、城主・本多正訥(ほんだ まさもり)は城を明け渡し、駿府は新政府軍の進軍途上の拠点となった。

Google Map

「駿府城」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

駿河・遠江・三河の3国を支配し氏素性も 一頭地を抜いていた今川氏は「海道一の弓取り」と呼ばれ、天下さえ手中にできる立場にあったが、桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると急速に勢いが衰え、たちまち武田氏と徳川氏に蚕食されて永禄12年(1569年)に事実上滅亡してしまう。その後、武田氏も信玄の病死後弱体化し天正10年(1582年)に滅亡、徳川家康が駿府にはいって駿府城を築いた。秀吉が天下をとり家康が関東に移封された後、城は豊臣家家臣の領有となったが、家康が関ヶ原の戦いに勝利すると再び駿府城は家康の配下(内藤氏)に委ねられた。
慶長12年(1607年)家康は江戸城から駿府城に居をうつし、この地から大御所政治を行うこととなった。なお、その2年後には家康は子の頼信に駿府城主の座をわたし、みずからは隠居の身として駿府城を終(つい) の棲家とした。

時代はくだって慶応4年(1868年)2月、西郷隆盛ひきいる東征軍が駿府にはいったときの駿府城主は、本多正訥だった。正訥は家康の謀臣・本多正信(まさのぶ) の弟・正重の末裔である。家康にゆかりの深いこの城を、徳川家譜代の本多氏が新政府軍に明け渡し、また西郷隆盛が山岡鉄舟と会見を開いたことは、その後の西郷・勝会談と江戸城開城が一足先に駿府の地で予行されたともいえる。

駿府(駿河国府中)は、明治2年(1869年)に静岡に改称された。なぜ駿府が静岡となったのか。
改称のきっかけは、府中では天皇に「不忠」になるという意見が出されたということらしい。廃藩置県を前にして地名の改称が藩庁で協議されたとき、賤機山にちなみ賤ヶ丘といったんは決まったが藩学校頭取の向山氏が時世や土地柄を考えて静ヶ丘すなわち「静岡」がよいと提案し、この名に決定されたということである。市名の由来を記した碑が静岡市役所本館前に設置されている。(静岡市HPより)

PHOTO

(写真クリックで拡大します)

 (中堀にかかる東御門橋。左端は巽櫓(たつみやぐら) )で、後方に見える高層の建物は静岡県庁別館)

 (東御門は高麗門(こうらいもん)と櫓門(やぐらもん) からなる桝形門の形式。写真は櫓門で前の写真にあるのが高麗門)

 (駿府城説明板)

 (案内図。現在駿府城公園となっているのは本丸(内堀の内側)と二の丸。周囲を取り囲んでいる水路が中堀。静岡県庁は三の丸にある)

 (駿府城は、内堀(本丸堀)、中堀、外堀の整然とした三重構造からなる典型的な輪郭式平城)

 (立て札(説明板)の向こうに七階構造の駿府城天守閣がそびえていた)

 (天守閣跡説明板)

 (鷹狩りを行う徳川家康の像)

 (北御門橋)