駿府(静岡)

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「西郷・山岡会見の地」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

慶応4年(1868)年2月、徳川慶喜は新政府の東征軍が江戸に進軍してくることを知ると、後事を勝海舟に託し、自らは江戸城を出て上野寛永寺で謹慎生活にはいった。

勝海舟は、江戸城と徳川家の処遇問題の交渉のため、駿府まで来た東征軍の西郷のもとに山岡鉄舟を派遣した。当初、勝は高橋泥舟(たかはしでいしゅう)に使者となってくれるよう依頼していたが、高橋は徳川慶喜の警護役として側を離れられないため、代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦した。勝も山岡にひと目会うなりその泰然真摯な人物に惚れ込み、かれに大役を任せたのだった。

山岡は薩摩藩士・益満休之助とともに駿府へ急行し、伝馬町の松崎屋源兵衛屋敷において西郷隆盛と面会した。 そのとき、西郷は江戸城攻撃を中止する条件として、徳川慶喜の身柄を備前藩に預け、江戸城を明け渡し、軍艦・武器をすべて引き渡すことなど、全7カ条を山岡に提示した。

山岡は、7カ条のうち6カ条は承諾するが、慶喜を備前藩に預けるという一条だけは絶対に受けられないと拒否した。山岡はひるがえって、もし西郷が逆の立場であり、島津公が他家預かりとされたら耐えられるかと問うたのである。

西郷は山岡の主張に理解を示した。西郷は幕臣として単身敵地に乗り込んできた山岡の覚悟、そしてその真摯な人間性に感銘を受けたのである。幕府側との交渉は、3月13日〜14日の西郷・勝の会談で最終的に江戸城開城が決まるが、このときの山岡との会見は、その道筋をつける重要な一歩となったといえる。

PHOTO

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 (会見の地碑は、新静岡駅近くのショッピングビルの傍らに建っている。道路は旧東海道。江戸は右方向)

 (このあたりに会見場所となった松崎屋源兵衛宅の入口があった。松崎屋は商家ともいわれているが詳細は不明。西郷としてはあくまで非公式な会見ということにしたかったのだろう)

 (西郷隆盛と山岡鉄舟のレリーフがあしらわれている)

 (レリーフの下の銘板)

 (碑の左側にある説明板。赤い部分が松崎屋源兵衛宅跡地と書かれている)