駿府(静岡)

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「浮月楼」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

宝台院で謹慎生活を送っていた徳川慶喜は、明治2年(1869年)の9月に謹慎が解けるとその翌月、かつて代官屋敷だったこの地に移り住み、以後20年の歳月をここで過ごした。その間慶喜は狩猟や油絵、写真撮影、自転車などさまざまな趣味に没頭した。町の人々は、かつての将軍を「ケイキさん(さま)」と親しみを込めてよんだという。

慶喜はこの屋敷の庭をこよなく愛していたが、明治20年ころになると、東海道線の建設で騒がしくなってきたため(浮月楼は線路から200メートルほどの距離である)、明治21年(1888年)6月に市内西草深に移転した。

その後、建物と庭は名跡として保存されることとなり、明治24年(1891年)に料亭「浮月亭」が開業。昭和前期に建物は全焼したが復旧し、現在の「浮月楼」となった。

慶喜は、明治30年(1897年)に静岡の地を去り、ふたたび東京(巣鴨)に帰った。

初代将軍の徳川家康も、8歳から19歳までの12年間を今川家の人質として駿府で過ごした。また慶長10年(1605年)には将軍職を子の秀忠に譲って、慶長12年(1607年)に江戸から駿府城に移り、元和2年(1616年)に城内で死去した。家康もまた鷹狩り、薬作り、能、囲碁将棋など多趣味で知られ、南蛮渡来の文物に非常な興味を示し新しもの好きで知られていた。最後の将軍慶喜との間には少なからず共通点があるようだ。

PHOTO

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 (浮月楼正面入口。浮月楼は料亭、結婚式場、ライブ会場などとして静岡市内外の人々にひろく利用されている)

 (「徳川慶喜公屋敷跡」の案内碑)

 (正面玄関をはいったつき当たりには浮月楼の由緒書きがある)

 (名庭師・小川治兵衛の手による浮月楼の庭園をかいまみる。治兵衛は、平安神宮や円山公園(京都市)、旧古河庭園(東京都北区)などのほか、国の名勝ともなっている数多くの庭園を作りあげた)

 

 (南方向には、静岡駅の高架ホームが見える。交通は至便でありながら比較的閑静さを保っているロケーションである)