近畿

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「彦根城」は、地図上のマークがある付近です。

HISTORY

徳川四天王のひとり井伊直政(いいなおまさ)は、関ヶ原の戦いの軍功により江戸防衛のための要衝とされていた近江国東部を与えられ、佐和山城に入場した。その後、琵琶湖畔に新たな城を築くことになり、元和8年(1622年)に彦根城が完成した。

井伊直弼

井伊直弼は、文化12年(1815年)10月29日、第13代藩主・井伊直中(なおなか)の十四男として彦根城内・槻御殿で生まれた。家督は直中の三男・直亮(なおあき)が継いだ。その他の兄弟たちは他家へ養子に出されるなどしたが、直弼は養子の縁もなく、17歳から32歳までを三の丸尾末町の屋敷で過ごした。直弼はこの屋敷に「埋木舎(うもれぎのや)」という名をつけ、300俵の扶持を受けながら出世競争から離れた質素な生活を送ったのである。かれはこの間、学問、武芸はもとより、禅や和歌、音楽などの芸事に没頭した。とくに茶の湯ではその道を究め、『一期一会』という語も創出した。

本来であるならば、無名の武士としてその棲処の名のごとく世に埋もれてしまうところだが、直弼32歳のときに、藩主・直亮の養嗣子となっていた直亮の弟が死去したため、かれは新たな直亮の世子(跡継ぎ)に指名され、急遽江戸にのぼることとなった。ところが嘉永3年(1850年)に直亮も亡くなってしまう。

かくして直弼は2人の兄の死によって、彦根藩藩主の座についたのだった。結果的に、養子にもいかず書生のまま過ごしていたことが思いもよらない出世に結びついたといえる。そして井伊家は徳川将軍家の譜代筆頭の家柄であるから、直弼はすぐに幕政の中心的な位置に座すことになった。

井伊直弼といえば、朝廷の勅許を得ることなく日米修好通商条約に調印をした人物であり、開国派として知られるが、本来は鎖国という祖法を守りつづけることを本願としていた。だが直弼は、時代がもはや鎖国を許さないことも理解していた。

老中・堀田正睦(ほったまさよし) が通商条約の勅許を得られずに京都から江戸に戻った直後、堀田は老中を辞任し、直弼が幕府大老となった(安政5年(1858年)4月)。

直弼はできるだけ朝廷の勅許を得た上で条約調印を行いたいと考えていたが、6月にハリスが軍艦で神奈川沖まで出てきて即時の調印を求めると、下田奉行・井上清直 (きよなお)と目付・岩瀬忠震(ただなり)を派遣し、調印を許諾した。ハリスは、アロー戦争が終われば間違いなく英仏は日本をターゲットとするであろうと警告し、直弼も日本が清国の二の舞になることを恐れたのである。

一方、条約の無断調印に激怒した朝廷は、幕府を非難し今後の政治方針への要求を記した文書を幕府のほか、先んじて水戸藩にも下した(戊午の密勅(ぼごのみっちょく)とよばれる)。朝廷が将軍家の臣下である大名に対し直接に勅書を送ることは、幕藩体制を否定するものであり、直弼としては断じてこれを許すことはできなかった。そしてこのときから粛清の嵐が吹き始めるのである(安政の大獄)。

条約勅許問題と並んで大きな問題となっていたのが、将軍継嗣問題だった。病弱の将軍家定の後継として、水戸家出身の一橋慶喜と紀州家の徳川慶福(よしとみ)とが次期将軍候補となっており、一橋慶喜は父の徳川斉昭、鹿児島藩主・島津齋彬(なりあきら)、越前福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)らが推し、一方、徳川慶福は、直弼ら保守的な譜代大名や大奥が推していた。

条約調印が終わった6日後、大老・井伊直弼は、徳川家定の後継を紀伊家の徳川慶福と決した。

直弼が起こした安政の大獄は、おもに水戸家を中心とした一橋派の人々にその矛先が向けられた。徳川斉昭の水戸家と朝廷とが攘夷の旗をかかげて結びつき、天下に蔓延する幕府批判勢力と糾合して反幕の気運が高まれば、日本全体が二分され大きな禍根となるだろう。幕府大老の直弼としてはこうした事態はいかなる手段を使っても防がねばならなかった。

直弼は、一橋派の首魁・徳川斉昭を永蟄居、一橋慶喜・松平春嶽らを隠居謹慎とし、その他、梅田雲浜や吉田松陰など反幕分子と目された多数の志士らを断罪した。

こうした直弼の弾圧に対して、水戸浪士らが井伊本人を誅殺する陰謀をめぐらし、安政7年3月3日(1860年3月24日)、登城中の井伊直弼の行列を江戸城桜田門外において襲撃。井伊直弼はその場で討ち取られたのだった(桜田門外の変)。

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 (国宝に指定されている彦根城天守。明治の廃城令で日本各地の城郭が消えていくなかで例外的に破却をまぬがれ、その美しい遺構を現在にのこしている。日本で国宝となっている天守は彦根城のほか、松本城、犬山城、姫路城、松江城(2017年現在))

 (金亀児童公園内に立つ井伊大老銅像)

 (井伊大老銅像)

 (銅像の手前右にある歌人・井伊文子氏の歌碑。文子氏は、1953年から36年間彦根市長を務めた井伊直弼の曾孫・井伊直愛氏の妻。「一身に責負ひまして、立ちましし、大老ありてこそ、開港はなりぬ」)

 (左手にある説明板。安政の大獄は後世にも非難の的となったが、彦根にとっては、日本の将来のために一身を賭して尽くし、また地元に善政をしいた偉人である)

 (天守閣付近から彦根市街とその背後にある石田三成の居城・佐和山城(跡)方面をのぞむ)

 (井伊直弼が若き日々をすごした埋木舎)

 (埋木舎。見学も可能)

 (埋木舎の説明板)

 (JR彦根駅前にある井伊直政の像。直政は徳川四天王のひとりとして家康を補佐し彦根藩の祖となった)