関東

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「ペリー上陸記念碑」は、地図上のマークがある付近です。

[銅像が建つペリーの出身地・ロードアイランド州ニューポート(トゥーロパーク)]

HISTORY

「太平の眠りを醒ます」と狂歌にもうたわれた「黒船来航」だが、アメリカからの黒船は突然やってきたわけではない。西洋諸国で唯一幕府と交流のあったオランダは、ペリー到来の1年前に、長崎の商館を通して翌年アメリカ艦隊が来航することになるだろうと警告を発していた。 また、ペリーが来る7年前の1846年には、やはりアメリカ海軍のジェームズ・ビドルが日本の開国を求めて2隻の軍艦で浦賀に来航している。しかし日本側に拒否されたため、交渉を断念して退去した。そのときの「反省」がペリーによる砲艦外交となったといえよう。

アメリカは当時、西洋諸国のアジア植民地獲得競争に遅れをとっており、これを挽回するため太平洋航路を開発していた。この航路を行き交う艦艇や西太平洋に展開する捕鯨船のために補給や修理、避難ができる港を日本に確保したいと考えていたのである。

マシュー・ペリー

マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)は、1794年(和暦では寛政6年)4月10日、アメリカロードアイランド州ニューポートで生まれた。海軍軍人一家の中で育ったペリーは、16歳にして海軍に入り上級士官への道を進んだ。米英戦争(第二次独立戦争 1812-1814)、米墨戦争(1846-48)などに参加している。
(米墨戦争でアメリカはメキシコからカリフォルニアを獲得した。これが太平洋航路開発の重要なステップとなり、日本に開国を促す要因ともなった)

46歳のときブルックリン海軍工廠の司令官に任じられ、同時に代将(Commodore)の称号を付与された。日本では「ペリー提督」という呼称が使われることも多い。

ペリーは蒸気機関を軍艦に積極的に採用して強力な艦隊を作り上げることに努力した。このため「蒸気船海軍の父」とも呼ばれている。また早くから日本の研究も行っており、日本を開国させて通商を行うべきであることを建言している。

1852年11月24日、ペリーは東インド艦隊司令長官としてフィルモア大統領の親書を携え、ミシシッピ号でバージニア州ノーフォークを出航。大西洋、インド洋を経由し、香港でプリマス号、サラトガ号と合流、さらに上海でサスケハナ号(旗艦)と合流し、4隻の艦隊となり、琉球に立ち寄った後、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)の夕刻になって浦賀沖に到着した。(4隻のうち、サスケハナ号とミシシッピ号は蒸気船(帆走も可)、他の2隻は帆船)

ペリーは7年前のジェームズ・ビドルの例をはじめ、以前の訪問者が日本に開国や通商を求めてもことごとく拒否されていたため、軍事力を行使することも辞さない強硬な態度で日本政府(幕府)に向かうことを決意していた。そして外交に関する権限を持った政府高官に直接親書を渡し、返答を受けることを期待していたのである。

浦賀沖に現れた艦隊に最初に接触した日本人は、浦賀奉行所の支配組与力・中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)とオランダ通詞の堀達之助(ほりたつのすけ)だった。中島らはサスケハナ号の舷側まで小舟で漕ぎ寄せ、甲板員と交渉して乗船し、来航の目的が国書を将軍に渡すことであることを知ると、外交上の事案は長崎へ回航して長崎奉行に提出するよう求めた。

しかしアメリカ側はこれを拒否し、あくまで当地にて政府高官に直接渡すことを望み、それが叶えられないならば非常の挙に出ることをもほのめかした。そして護衛の軍艦から降ろされた短艇で江戸湾の測量を開始、憤激した沿岸警備の武士たちが騒ぎ立てる中、一時は江戸湾深く羽田沖にまで侵入し幕府に圧力をかけた。

羽田沖1km強にまで接近したミシシッピ号は、炸裂弾を発射できるペクサン砲を10門搭載していた。この有効射程距離は5km以上とされ、その気になれば江戸城を直接攻撃することも可能だったのである。

やむを得ず、幕府は国書を受け取ることを承諾し、奉行所与力・香山栄左衛門(かやまえいざえもん)を通してその旨をアメリカ側に伝えた。香山らはアメリカの歓迎を受け、艦内で開かれた酒宴で米国の士官らと親しく交流した。『ペリー提督日本遠征記』には「日本人の役人は非常に礼儀正しく社交的で、また世界の地理や情勢にもよく通じている」とアメリカ側が感銘を受けたことが記されている。

この間、最高司令官のペリー自身は、国としての威厳を保つ目的もあってか、日本側の人間には一切姿を見せなかったと言われている。

そして6月9日、ついにペリーは浦賀に隣接する久里浜に上陸した。海岸には急造の波止場と応接所が設けられ、アメリカ側の将兵はボートに分乗して次々と上陸、音楽隊とともに約300名が列をなして行進してきた。日本側は、浦賀奉行の戸田氏栄(うじひで)と同じく浦賀奉行の井戸弘道(いどひろみち)が代表として会見に臨み、ペリーの持参したアメリカ大統領の親書を受け取った。

親書の内容は、「両国は互いに親睦を結び、貿易を始めたい。合衆国の国民が漂流したときの保護、石炭・食料などの補給のため、南方に港を開いてほしい」という内容である。 ペリーはこのまま日本からの返書を受け取りたかったが、日本側が来年まで待つよう要求したため、これを受け入れて来春再来することを伝えた。結局艦隊は来航から10日間の江戸湾滞留ののち、6月12日の朝になってようやく浦賀を退去したのである。

その後ペリーは、アメリカ本国に戻ることなく香港で待機し、嘉永7年(1854年)1月16日、前回の国書に対する回答を求めて再び浦賀に来航した。 この間、老中首座の阿部正弘は、アメリカからの開国要求を受け、以後の外交方針について各大名をはじめ身分の上下を問わず広く意見を収集したが、これといった名案を得ることなく、かえってこのために諸大名や朝廷から幕政へ介入する機を与えてしまった。幕末の混乱はまさにこのときに端を発したのである。

ペリーは、今度は7隻(サスケハナ、ミシシッピ、ポーハタン、マセドニアン、ヴァンダリア、レキシントン、サザンプトン)の艦船を率いて来た。さらに2月に入って2隻(サラトガ、サプライ)が加わり9隻の大艦隊となった。否定的な返答を許さないというペリーの強硬姿勢が見て取れる。

海外事情に疎い一般世論は、攘夷(外国勢を打ち払う)論が大勢を占めていたが、幕府はアメリカとまともに戦えるような軍事力も経済力もないことを自覚していた。日本側としては極力争いを避け、とりあえずは開国要求を呑むという以外に選択肢はなかったといえるだろう。

嘉永7年3月3日、神奈川(横浜村)に応接所が設けられ、大学頭・林復斎 (はやしふくさい)はペリーと1カ月の交渉を続け、日米和親条約が結ばれた。この条約により日本は下田と箱館の2港を開き、薪水・石炭・食料などをアメリカに提供することなどが約された。ペリーは3月13日に神奈川を退去し、開かれたばかりの下田に入った。この地の了仙寺で和親条約の細則を定める交渉が継続して行われた。これはとくに下田条約とも呼ばれる。

※安政元年(1854年)3月27日の夜、長州藩の吉田松陰と金子重輔 (かねこしげのすけ)は海外密航を計画し、下田沖に停泊中のポーハタン号に小舟で乗り付けて交渉したが、アメリカ側に拒否されて計画は失敗しその後投獄された。ペリーはその話を聞き、海外事情の見聞のために命をかけて行動した勇敢な日本人に感動し、幕府に2名の罪を軽くするよう依頼している。
※和親条約では、「調印日から18カ月経過した後であれば、両国政府の一方が必要と認めれば、アメリカは下田に官吏を駐在させることができる。」という一項が定められ、この項目に基づいて、安政3年(1856年)7月にタウンゼント・ハリスが下田に到着し、アメリカ領事として日米修好通商条約の締結を進めることになる。

ペリーは嘉永7年(1854年)6月1日に下田を退去し、琉球に立ち寄って琉球王国と通商条約を結んだあと、翌1855年にアメリカに帰国。帰国後はアルコール障害やリューマチに悩まされた。

日本に2度来航し日本開国を実現させたことは、ペリーの海軍軍人としての集大成だったともいえる。その記録をつづった『日本遠征記』執筆はペリーの最後の仕事となった。そして日米和親条約締結から4年後の1858年3月4日にニューヨークで死去。墓地は故郷のロードアイランド州アイランド墓地にある。

ペリーが死去して2年後の1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書を交換するためにアメリカに渡った幕府の遣米使節団(勝海舟や福澤諭吉らも咸臨丸で途中まで同行)は、ニューヨークに滞在中、ペリー未亡人を表敬訪問した。ペリー宅には日本から持ち帰った陶器、漆器、掛け軸などが多数飾られていたという。

PHOTO

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 (ペリー上陸記念碑は、ペリー公園の中に建っている。道路を左へ行くと、東京湾フェリー(金谷港行)の乗り場がある。右方向には「開国橋」があるが、この名称は史跡とは無関係)

 (上の写真で横断歩道を渡って振り返ったところ)

 (右側の建物がペリー記念館)

 (碑の文字は伊藤博文による)

 (碑の裏面)

 (ペリー公園案内図)

 (ペリー記念館)

 (ペリー記念館の中にあるジオラマ)